Pray

月面。
荒涼とした大地には風も吹かず、緑もなく、湖沼もない。
大気は光を拡散する程の厚さを持たず、目もくらむ日向とそこから切り抜かれた鋭い影が白黒のみの世界を作っている。
その沈黙の世界でセシルは「大いなる鯨」の腹に背を預けていた。

容赦ない日の光を浴びていた魔導船の船体は熱いほどだったが、今の自分にはこれでいい。
かつてゼムスと呼ばれた完全暗黒物質を屠り去り疲弊しきった肉体。
あまりにも短期間にあまりにも多くの物事が起き、それが過ぎ、一時的に麻痺している精神。
消耗の激しさに眠る事さえできない身はこの熱を感じる事で自分が生きていることを確認していたのだ。


ゆったりと、静かに流れる旋律。どこか聞き覚えのある、だが初めて聞く言葉。


果てのない静寂に浸されていた精神はそれを歌と認識してもしばらくはそのままだった。
……どこから?
仲間達には船で休むように言ったが、自分と同じように休めない者が降りて来たのだろうか。
その疑問がようやく浮かんでセシルは目を開く。
途端、瞼越しでも感じられた光が遮る物なく瞳に飛び込み、眉間に痛みの針を突き刺した。
「つっ……」
反射的に瞼を閉じ直しゆっくりと瞬きを繰り返すと、真っ白だった視界が白黒の世界に変わっていく。
預けた背を引きはがす気にもなれず目線だけを横に向ければ血と汗で固まった自分の髪が視界を塞い、それはつまり自分の顔はなかば髪に隠されているということだ。
我ながらひどい姿だな。
ため息1つと共に無理やり髪をかきあげた先には──誰もいない。
さすがに怪訝に思い背を起こしたセシルはその歌が耳に聞こえるものではない事に気づき身を固くした。

先刻の死闘で自分たちを支えてくれた仲間達の祈りの声?
違う。あれは頭の中に響くような声ではあったが、今聞こえるこれは自分の内側からしみ出すような……「記憶」だ。
だが自分はこの歌を知らない。

" パラディンが受け継ぐ真の『光』。それは『記憶』だよ。……今にきっと、わかる時が来る"

ふいに父の言葉が蘇りセシルは今度こそ姿勢を正した。
そう、自分が知らない記憶ならばそれは父のものに違いない。
自分が「憶えている」物事を初めて「知る」という奇妙な体験に戸惑いながら、セシルはその歌を聞いていく。
今の哀しみを受け入れた上で哀しみの終焉を願い、全ての生命へ祝福を、夢よ叶えと願う歌。
はしばしに入る自分の知らぬ言葉をたどたどしく追えば記憶がその意味を教えてくれた。

(静けき夜に瞳を閉じて)
(素直な心で夢を祈れ)

「大いなる魂」のもとで父は母を見つけたに違いない。
根拠のない思いつきだったが確信があった。
なぜなら、記憶はこの歌を口にしていたのが父と母だと語っているから。
自分の知らないこの言葉は父が口にした部分。彼の世界の古い言葉──。

本来ならばパラディンの記憶の継承においてこうした個人的な部分がほとんど残らないことを今のセシルは「憶えて」いる。

"だが、たとえ不可能だと言われてもやってみる価値はあるだろう?"

彼ならきっと楽しそうにそう言うのだろう。伝えたい、という彼の願いはそのまま祈りの歌の記憶と共に自分に託された。
辿れる記憶はそこまで。
母がどんな声で歌ったのか、どんな姿だったのかを知るすべはもうないけれど。
それでもこの歌は、確かに光であるに違いなかった。

「深淵」としか形容のしようもない闇。
闇ならば近いも遠いも解るまいに、この闇は無条件で「永遠」の二文字をつきつけてくる。
己自身よりやや淡い色を纏った青き星はどれほどの痛みをも受け止めて凛とし続ける気高ささえ感じさせる。
その色を見つめながらゴルベーザは館の扉に背を預けていた。

なるほど、あれこそがあの星の本来の色か。幼い頃は空の色こそが本物で地上の水がそれを映しているものと思っていたが──
そこまで考えた所で彼はまたしても同じ問いが胸によぎるのを自覚して眉をしかめた。

本当にこれで良かったのか?

「……くどい」
我知らず口に出し、そんな己自身をもう何度目かもわからぬ嘆息があざ笑う。
笑いたければ笑うがいい。私には許しはおろか罰を乞う資格もないのだ。
強大な力を持ちながらも己の力が足りぬと自らを責め苛み、同時に正面を見据え続けたあの弟。彼ならばきっと私を許してしまうだろう。それでは人々は救われない。私にしかるべき罰を、という声は彼を苦しめる。
父の同胞に会ってみたいというのも本心。ならば黒い甲冑はその存在さえ消し去り、あの星の未来への道を妨げぬのが唯一の──

欺瞞もいい加減にしたらどうだ。

自分自身の心の声に一蹴されれば見たくもない真実に嫌でも意識を向けざるをえない。
要するに逃げたのだ。罰せられることからも、許されることからも。
罰せられれば許されたいという願いで絶望し、許されれば人々の平穏という願いで絶望する。その絶望を恐れて逃──

いや、それもまた欺瞞。

嘆息しかけ、今度はどうにかこらえてみせた。
先刻訪れた時に沈黙していた8つのクリスタルを思い出す。
その沈黙の理由が彼への配慮だけではないことを察してしまったため、彼は眠りにつく前にどうしてもここへ来る必要があったのだ。

クリスタルは力を失いかけている。
そしてそれが意味するのは、次に彼が目覚めた時の空にはあの青い光がないということだ。
例え彼が彼自身を許す日が来たとしてもそれを唯一人の弟に伝えるすべは失われる。
だから心に焼き付けておこう。父が全てを捨ててまで焦がれた星を。異界の者とも理解しあえる証を残した母を。自分の罪を。全てを守り抜いた弟を。彼に託した未来を。幼い頃の自分の全ての思い出を。

……「幼い頃の思い出」。
その言葉が引き連れた記憶の断片にゴルベーザは翠の瞳を伏せた。
他愛ない、だが今となっては狂おしいほどに大切なものとなった過去の日々。母が紫色の花穂を好む理由を子供の無邪気さで問い続けたこと……生まれたばかりの弟があまりに小さくて触れるのが怖かったこと……気恥ずかしいまでに純粋な歌は父の世界の古い言葉を含んでいるとかで、確か意味は──

(聖なる夜には手を重ねて)
(真摯な愛で夢を祈れ)

本当の願いはひどく単純で、滑稽で、それなのに意識する事さえ罪のように思えるのは何故なのか。
だがせめて今だけは。今だけは祈っても許されるだろう?
瞼を完全におろし、ようやく呪縛から取り戻した古い記憶を蘇らせると懐かしい歌に祈りを託す。
そういえば、最後に歌など口にしたのはいつだったか……。

「……?」
小さな違和感。
胸元の鎧の隙間に指先を差し入れると小さなクリスタルの欠片がセシルの手に落ちた。
あの時、真実を照らす光を放つと同時に砕け散ったクリスタル。強すぎる日差しを受けてきらめいてはいるが、もう自ら輝くことはないのだろう。手の中の欠片を見つめたままセシルは再び魔導船に体をゆだねる。
これを渡された時に「兄」を。直後に父を。今、母を。
欠片のようなものかも知れないが、確かに自分は彼らと──あるいはその記憶と──出会えたのだ。

けれど、もし。
もし欠片でなかったなら、もし砕けなかったなら、どんな家族だったのだろう。
母はどんな人だったのだろう。
家族が離散した時に何があったのだろう。
自分が平穏に成長していた間、彼はどう成長していたのだろう。
もし何もなくただの兄弟として過ごせていたら彼とはどんな会話ができたのだろう。

もっと聞いておくんだった。
もっと話しておくんだった。
もっと理解するべきだった。
もっと、もっと……。

魔導船が泊まっている台地からは月の民の館を斜め後方から見下ろす形になる。
父はかつてこの地から青き星へ降り立ち、兄と伯父は今この地で眠りにつこうとしている。
せめて心に焼き付けておこう。父が残してくれた記憶を。彼が母を愛したことを。肉親の情がなかったにせよ、真実を教えてくれた伯父の言葉を。罪を雪いだ兄を。彼らとのほんの僅かな会話を。

全ての輪郭が明瞭にすぎて遠近感のない世界。 砂と岩に覆われた無機質な大地。 見上げる必要も見下ろす必要もなく同じ高さの視野におさまる青き星。 クリスタルの尖塔。 それに反射され屈折され投げかけられる彩光。 冷たい感触の中に温かな光をたたえていたクリスタル。 鼻歌をこよなく愛する飄々とした一族。 誇り高き幻獣神。 絶望と憎しみに捕われた哀れな魂。 支えてくれた仲間の祈り。 それらの全てを抱いてなお変わることのない静寂。 かつて滅びに瀕した民の、一時の眠りの地。 この景色も心に焼き付けておかなくては。

……「この景色も」?
胸をよぎった最後の言葉がひっかかり、セシルは翠の瞳をすがめた。
それではまるで二度とここへ訪れる事がないかのようではないか。
確かに自分は地上の者として生きていく。別れも告げた。だがこの月は人間の歴史よりも長い間ここにあり、これからもここにある。まさかこのクリスタルのように砕けるわけでも──
自分の考えに苦笑して細かな傷にまみれた手で欠片をかざした瞬間、呼吸が止まった。

"青き星に置かれた8つのクリスタルとのバランスで──"
"思念波を中和するのが精一杯です"

あの8つのクリスタルは帰還の途につく際になぜか沈黙していた……。

「いや、大丈夫だ」
予感めいた思いをあえて無視して彼は欠片を握りしめた。
大丈夫だ。例え遠い未来になったとしても、必ず会える。これで最後のはずはない。
「……お前もいるしな」
船を家族や友人のように扱うのは飛空艇に親しむ者の常。
セシルもその例に漏れず背を預けている「友人」に声をかけたが、自分の声が微かに震えているのは気のせいか?

……疲れているからだ。眠れないとしてもせめて身を横たえたほうが良い。そう結論づけたセシルは足を鯨の胎内へ向けかけ、あと1つだけ、と思い直した。

簡単に叶う願いではない。困難なことばかりかも知れない。それでも願う価値はある。
あのミシディア侵攻の日以来一度とて歌を口にする気にはなれなかったが、今ならもう許されるだろう?
無窮の星々を見上げ、新しくて古い記憶をもう一度辿ると歌に祈りを託す。
戻ったら、忙しくて歌どころではなさそうだからな……。

静寂の世界に流れる、ささやかで切実な祈りたち。

(静けき夜に瞳を閉じて)
──願わくば、あの星の人々に祝福された未来を。
(素直な心で夢を祈れ)
──願わくば、あの誇り高い男が彼自身を許す事を。
(いつしか夢たちが叶うように)
──……もし許されるならば、あの聖騎士が私を肉親と思い続けてくれる事を。

願う歌声に悲痛な叫びが押し込められていることに彼自身は気づいていない。


(聖なる夜には手を重ねて)
──どうか人々の顔に笑顔が戻るように。
(真摯な愛で夢を祈れ)
──どうか誇り高い彼が彼自身を許せるように。
(いつしか哀しみも終わるように)
──……もし許されるならば、また会えた時は兄弟としての会話ができるように。

願う歌声に悲しい予感が含まれていることに彼自身は気づいていない。


目を閉じた者と、目を上げた者。
過去の記憶を抱く者と、未来を築き始める者。
同じ時、同じ願い、同じ歌を紡いでいる事を互いに知る事はないまま、それでもゆるやかな旋律は静けさを満たして溢れ出す。

──願わせ給え。おこがましくとも今だけは。
──願いよ叶え。今は無理でもいつかは。

乾いた土に落ちるのは塩と水。
傷ついた心に染み入るのは失われた過去とささやかな救い。


(遠く静かな星空から)
" ……さあ、二人とも疲れているのだからお休み "
" 今日はもう寝なさい、ここにいてあげるから── "

それはいつか聞いた声。忘れぬ限り共にあり続ける声。そしていつか遠い未来に再び会う声。
今はまだその時ではない。
けれど……その時には己を恥じる事なく胸を張れるように。


(溢れる命の歌が聞こえる)

──願わせ給え。おこがましくとも今だけは。
──願いよ叶え。今は無理でもいつかは。

Written by: すばる(NOT SERIOUS!!
Date: 28 Feb. 2005 (original) / 12 Mar. 2006 (rewrite)
Inspired by:
  『MIRRORS〜真なるパラディンへの継承』written by ノーク氏(天空から吹く悠久の風
  『Pray』(「Final Fantasy Vocal Collections I - PRAY -」収録楽曲)
Original text: FF4富胸委員会セシル祭り」投稿作品(同題)